虚数空間の愛 -Imaginary Space Love-
Drama
14 to 20 years old
2000 to 5000 words
Japanese
夕焼けが図書館の大きな窓から差し込み、埃っぽい空気をオレンジ色に染めている。少年、湊斗(みなと)は、誰もいない閲覧席の一番奥で、難しい数学の問題集と格闘していた。額にはうっすらと汗が滲み、その集中を邪魔するように、一房の前髪が落ちてくる。彼はそれを煩わしそうに払い除け、再び数式に視線を戻した。
彼の周りには、無造作に開かれた数学書が積み重ねられている。記号と数字の羅列は、まるで異世界の言語のようだ。他の生徒たちが部活動や友人との交流を楽しむ時間、湊斗にとっての放課後は、常に数学との孤独な対話だった。
小さく呟き、湊斗はシャーペンを強く握りしめた。完璧主義者である彼は、ほんの小さなミスも許せない。自分の理想とする数学者像との距離が、絶望的に遠く感じられる。
振り返ると、そこに立っていたのは、クラスメイトの美少女、凛(りん)だった。透き通るような白い肌に、大きな瞳が印象的な彼女は、いつも明るい笑顔を絶やさない、クラスの人気者だ。湊斗とは対照的に、彼女の周りにはいつも人が集まっている。
凛の声は、まるで春の陽だまりのように温かい。湊斗は少し戸惑いながら、視線をそらした。
彼の言葉は、どこか棘を含んでいる。それは、凛のような存在に対する、ほんの少しの羨望と、自分の数学への依存を隠そうとする防衛本能からくるものだった。
「自己満足でもいいじゃない。一生懸命な姿は、ちゃんと誰かに届いているよ」
凛はそう言うと、湊斗の隣に腰掛けた。彼女の存在は、無機質な数学の世界に、鮮やかな色彩を添えるように、彼の心をざわつかせる。
湊斗は、凛と知り合ってから、自分が少しずつ変わってきていることに気づいていた。数学以外の世界にも、ほんの少しだけ興味を持つようになった。しかし、それは同時に、今まで目を背けてきた自分の弱さと向き合うことでもあった。
「ねぇ、湊斗くん。少し休憩しない? 今日、新しいケーキ屋さんOpenしたんだ。一緒に行ってみない?」
凛の誘いに、湊斗は迷った。今、数学から離れることは、自分を裏切るような気がする。しかし、凛の笑顔を見ていると、どうしても断ることができなかった。
ケーキ屋は、可愛らしい装飾で飾られており、店内は甘い香りに満ちていた。凛は嬉しそうにショーケースの中のケーキを選んでいる。その姿を、湊斗は少し離れた場所から眺めていた。
彼は、数学の記号を追っている時以外、自分の感情をうまく表現することができない。凛に対して抱いている感情も、それが恋愛なのか、それとも単なる依存なのか、自分でもわからなかった。
凛が指差したのは、イチゴがたっぷりと乗ったショートケーキだった。そのケーキは、まるで彼女自身のようだった。
湊斗は曖昧な返事を返した。彼の心は、数学と凛の間で、激しく揺れ動いている。
店を出て、2人で公園を歩いていると、凛が突然立ち止まった。
「湊斗くん…悩みがあるなら、いつでも話してね。私でよければ、いつでも聞くから」
凛の言葉に、湊斗は驚いた。彼女は、自分の心の奥底にある闇を見抜いているのだろうか。
彼は、今まで誰にも話したことのない、自分の過去を話し始めた。幼い頃から数学の才能を発揮し、周囲から天才と呼ばれ、期待を一身に背負ってきたこと。しかし、その期待に応えられなかった時の失望感、そして、数学に依存することでしか自分の存在意義を見出せなかったこと。彼は、まるで壊れたダムのように、自分の感情を吐き出した。
凛は、何も言わずに、ただ湊斗の話を聞いていた。時折、優しく微笑み、時折、悲しそうな表情を浮かべながら。彼女は、湊斗の心の痛みを、自分のことのように感じていた。
話し終えた湊斗は、すっかり疲れ果てていた。まるで、長い悪夢から目覚めたかのように。
湊斗は、後悔の念に駆られた。彼は、凛の優しさを利用してしまったのではないか。
「そんなことないよ。湊斗くんが辛かったことを知ることができて、よかった」
凛は、そう言うと、湊斗を抱きしめた。彼女の温もりは、まるで希望の光のように、湊斗の心を照らした。
その時、湊斗は初めて、自分の依存が、凛に向けられていることに気づいた。彼は、数学に依存することで、自分の弱さを隠してきた。しかし、凛は、彼の弱さを受け入れ、愛してくれた。
しかし、それは同時に、新たな苦悩を生むことでもあった。彼は、凛に依存することで、ますます自分の存在意義を見失ってしまうのではないか。そして、いつか凛が、自分から離れていってしまうのではないかという恐怖に苛まれた。
湊斗は、言葉を詰まらせた。彼は、自分の本当の気持ちを伝えることができなかった。
その日から、湊斗はますます数学に没頭するようになった。彼は、自分の不安を、数学の問題を解くことで紛らわそうとした。しかし、それは逆効果だった。彼は、ますます自分の理想とする数学者像との距離を感じ、絶望に打ちひしがれるばかりだった。
ある夜、湊斗は、自室で一人、数学書を読み耽っていた。しかし、彼の頭の中には、数学のことなど何も入ってこなかった。彼の心は、凛への依存と、将来への不安でいっぱいだった。
彼は、机の上に置いてあったカッターナイフを手にした。それは、今まで何度も彼を誘惑してきた、自傷への入り口だった。
湊斗は、カッターナイフを自分の腕に押し当てた。赤い血が流れ出し、彼の心をわずかに麻痺させた。
しかし、その痛みは、彼が抱える心の痛みに比べれば、ほんのわずかなものだった。彼は、自分の存在意義を、完全に失ってしまった。
翌日、凛は、湊斗が学校を休んだことを知った。彼女は、すぐに湊斗の家に向かった。彼女は、湊斗の身に何か異変が起きたのではないかと、不安でたまらなかった。
湊斗の部屋のドアを叩くと、中から弱々しい声が聞こえてきた。
凛がそう言うと、湊斗はゆっくりとドアを開けた。彼女が目にしたのは、憔悴しきった湊斗の姿だった。彼の腕には、包帯が巻かれており、部屋は血なまぐさい臭いが漂っていた。
凛は、悲鳴を上げそうになるのを必死にこらえた。彼女は、湊斗を優しく抱きしめた。
湊斗は、涙を流しながら、自分の過ちを告白した。彼は、自分が自傷行為に及んでしまったことを、凛に打ち明けた。
凛は、何も言わずに、ただ湊斗の背中をさすった。彼女は、湊斗の痛みを、自分のことのように感じていた。
「湊斗くん…あなたは一人じゃないよ。私がいつもそばにいるから」
凛の言葉は、湊斗の心に深く響いた。彼は、自分の周りには、凛という大切な存在がいることに、改めて気づいた。
彼は、数学に依存することで、自分を傷つけてきた。しかし、凛の愛によって、彼は再び、自分の存在意義を見出すことができた。
湊斗は、数学者になることを諦めたわけではなかった。しかし、彼は、数学だけが自分の人生ではないことを知った。彼は、凛と共に、自分の新たな可能性を探していくことを決意した。
彼は、依存という名の鎖を断ち切り、自分の足で歩き出すことを決意した。そして、凛との恋愛を通じて、人間として成長していくことを誓った。
湊斗と凛は、手を取り合って、夕焼け空の下を歩き出した。2人の未来は、まだ始まったばかりだった。
彼らは、互いに依存し合い、支え合いながら、困難を乗り越え、成長していくだろう。そして、いつか、真実の愛を見つけることができるだろう。
夕焼けは、彼らを優しく照らし、まるで祝福しているかのようだった。